大分地方裁判所竹田支部 昭和43年(ヨ)11号 判決 1969年6月09日
債権者 佐藤実
右訴訟代理人弁護士 河野浩
債務者 佐藤豊
主文
当裁判所が本件につき昭和四三年六月四日にした仮処分決定を次のとおり変更する。
債務者は、竹田市大字菅生所在の平上井路の第二号分水口から別紙目録記載の土地に対する一町二反歩単位の灌漑用水利を妨害し又は右単位以下に制限する水門の閉塞、水流の変更、分水量の削減もしくは右分水口の現状の変更等一切の行為又は処分をしてはならない。ただし、右単位の表示は、同井路の灌漑用水利権者らがそれぞれ同井路の流水を利用し得る限度を畝歩単位で表示する慣習によるものとする。
訴訟費用は債務者の負担とする。
事実
債権者は、「本件仮処分決定を認可する。訴訟費用は債務者の負担とする。」との判決を求め、申請の理由として、
一、債権者は、別紙目録記載の土地(以下本件土地という。)のうち字仲津留の分を大正一三年頃から、字木ノ上の分を昭和一五年頃からそれぞれ小作し、戦後の農地解放によりこれらを所有するに至ってひきつづき耕作しているものであるが、それらの土地の灌漑用水は、債権者が右のとおり本件土地を小作していた時代からひきつづき竹田市大字菅生地区の平上井路の流水につき灌漑用水利権を有することにより、同井路の第二号分水口から分水を受けてまかなってきたものである。
二、債権者は、昭和四二年八月三一日、申請外葉山一実から四六万円を、利息月二分、弁済期同年一二月二〇日との約で借り受け、同人に対し、右借入金およびその利息と従前の借入金に対する未払利息との合計五六万三、〇〇〇円を担保する趣旨で、右弁済期に右金員を弁済すれば返還を受ける約束のもとに、代金を五六万三、〇〇〇円とする売買名下に前記水利権を譲渡した。
三、しかしながら、右水利権の譲渡契約は、公序良俗に反し無効である。その理由は次のとおりである。
(一) 田地の灌漑用水利権は、性質上、当該田地の所有権に随伴しこれと運命を共にすべきもので、田地の所有権と別個に譲渡し得るものではない。
(二) 前記葉山は勤め人で田畑の耕作に従事しているものではない。
(三) 前記譲渡契約は、葉山が債権者の無智窮迫に乗じ、利息さえ支払えば平上井路の水を従前どおり使用してもよいし、弁済期を少々徒過しても水利権をとり上げるようなことはしないと甘言を用いた結果締結したものである。
(四) 債権者は本件土地による稲作以外には生活の基礎とし得る収入の道がなく、他面本件土地の灌漑用水は前記水利権にもとづいて得られる分水以外にはない。したがって、債権者が前記水利権を失うことはその生存を不可能にするものである。のみならず、債権者が前記水利権を失うことにより、一町余反に及ぶ本件土地は畑地としても利用できない荒地となるもので、これによる社会的損失も甚大である。
四、事情であるが、債権者は、昭和四二年一一月下旬頃金融ブローカー甲斐義数から、「債権者の水利権を葉山から譲り受けているが、債権者の葉山に対する売り値では戻さぬ、高く買いとれ」とか、その頃債権者がある山林の所有権の帰属について第三者と係争中であったところ、「その山の事件から手をひけ、そうしないと、債権者の全債権者から債権者に対する債権を譲り受けて強制執行する、そうすれば、葉山から水利権を譲り受けているし、債権者はたちまち破滅だ」と再三強要されるに至った。そこで、債権者は困惑して葉山にことの次第をただしているうちに、前記借入金の弁済期を徒過してしまった。その後、債権者と葉山とは、昭和四三年三月一六日、債権者が葉山に対し同月二七日までに五八万円を弁済し、その場合葉山は債権者に前記水利権を返還する、との和解契約を結び、債権者は、同月二七日、右約旨に従い葉山に対し五八万円を弁済し、葉山と連名で平上井路代表世話人である債務者に対し、前記水利権は従前どおり債権者に帰属することとなった旨を通告した。
五、ところが、債務者は、債権者が前記水利権を喪失したとして、昭和四三年五月一〇日、平上井路第二号分水口からの本件土地に対する分水を閉塞板により阻止した。
六、債権者はやむなく実力で右閉塞板をとり除いたが、再び債務者が右の如き挙に出るおそれがあり、そのような事態が生ずれば、債権者の生活の基礎である稲作は不能に帰するので、仮処分により、債権者の前記水利権にもとづく水の利用に対する債務者の妨害を予防する必要がある。
七、よって、債権者の申立にもとづき発せられた、「債務者が本件土地に対する灌漑用水利を妨害又は制限する水門の閉塞、水流の変更、水量の減少等一切の行為をしてはならず、かつ平上井路第二号分水口の現状を変更してはならない」旨の本件仮処分決定は正当であるので、これを認可する旨の判決を求める。
と陳述し、債務者の主張に対し、
その(二)のとおり、平上井路関係者の間に、水利権の量を畝歩単位で表示する慣習が存在することは認めるが、水利権の譲渡を無制限に認め、他方、水利権台帳に登録されていないものは水利権者との取り扱いを受け得ないとの慣習が存在することは争う。
その(三)のとおり、債権者が水利権を処分し、同人の保有する水利権が一町二反単位となっていたことは認める。
その(四)のとおりの手続が順次とられていることは認めるが、葉山が本件水利権を債務者主張のとおり転売したかどうかは知らない。
と述べ(た。)証拠≪省略≫
債務者は、「本件仮処分決定を取り消す。債権者の本件申請を却下する。訴訟費用は債権者の負担とする。」との判決および仮執行の宣言を求め、答弁として、
(一) 債権者主張の第一、二項の事実、同第四項中債権者と葉山との間に債権者主張のとおりの和解契約が成立し、債権者がこれにもとづく債務の履行を遂げ、右両名が平上井路代表世話人である債務者に対し債権者主張のとおりの通告をしたこと、同第五、六項の事実はいずれも認めるが、その余の債権者の主張事実は争う。
(二) 平上井路は、約六〇年前から自然の流水を導入して開設されている灌漑用水路であるが、同井路の流水につき水利権をもつ地元関係者の間には、各人がそれぞれの水利権にもとづいて供給され得る水の量の多寡を耕作面積にかかわりなく畝歩単位で表示し、各人がそのような水利権の全部又は一部を田地の所有権ないしは耕作権にかかわりなくこれとは別個に自由に売買し、その得喪変更は世話人に届出て世話人が保管している水利権台帳に登録することにより第三者に対抗し得ることとし、これとは逆に、田地の所有権が移転されあるいはこれに耕作権が設定された場合においても、水利権についての特段の意思表示がなされかつ右同様の手続がとられない限り、水利権を保有していた従前の当該田地所有者はひきつづき水利権のみを保有し、これを第三者に自由に譲渡でき、一般に、右水利権台帳に登録されていないものは水利権者としての取り扱いを受け得ないものとする、との慣習が存在する。
(三) 債権者においても、この慣習は熟知しており、同人は、従前一町二反二畝三歩単位の水利権を保有していたが、昭和四二年一月一七日債務者に対しそのうち二畝三歩単位を売り渡して保有水利権は一町二反単位となり、同年五月七日申請外草場感賞にそのうち六反単位を借入金担保の趣旨で売り渡し、その後これを買戻し、その都度前記手続を遂げてきたものである。
(四) 債権者主張の本件水利権は、右慣習にもとづき、債権者主張のとおり売買されたもので、右売買による水利権の移転は昭和四二年九月一日債権者の平上井路世話人に対する届出により前記水利権台帳に登録され、しかも、右水利権は、同年一二月二六日葉山から申請外佐藤忠義、佐藤稲成、佐藤春康、佐藤正成、佐藤満の五名に対し代金合計八四万円で分割譲渡され、同日葉山から右同様の手続がとられてその旨右台帳に登録されているものであるから、債権者は既に平上井路の水利権を喪失しているものである。
と陳述し(た。)証拠≪省略≫
理由
一、債権者の主張第一、二項の事実は当事者間に争いがない。
二、そこで、債権者の主張第二項掲記の債権者と葉山との間の本件水利権の譲渡契約の効力について判断する。
≪証拠省略≫によると、葉山は、会社員であって、平上井路の水利を必要とする田地を保有しているものではなく、債権者から本件水利権を譲り受けるに際しても、債権者に対する貸金の返済を受け得ない事態が生ずることを特段予測していたわけでもなければ、そのような事態が発生した場合に右水利権を利用し又は処分することを考えていたわけでもなく、単に債権者に対し借入金の返済を促す手段として債権者から水利権を譲り受けることにしたにすぎないものであること、一方債権者は、若干の山林を所有し、幾分かの畑作も営んでいるものの、収入の大部分は稲作農業にたよっているものであるが、約一町歩に及ぶ本件土地以外には耕作し得る田地を保有していないこと、本件土地は、平上井路の分水を唯一の灌漑用水とするもので、他に用水を得る方途はなく、債権者において平上井路の流水を利用し得ないことになればたちまち廃田と化する運命にあることを認めることができ、右認定に反する証拠はない。
ところで、田地の灌漑用水利権は、水田灌漑のためにのみ存在し得る支配権であるから、本来水田の所有権に従属してのみ存在するもので(水田の賃借人が引水してこれを耕作する関係も水田賃借権の効力として水田所有者の水利権にもとづく便益を享受しているものというべきであろう)、これと分離して独立に存在することは不能であるばかりでなく、灌漑用水を必要としないところには権利として存続させる必要もまた存しない性質を有するものと解するのが相当である。したがって、かりに、灌漑用水利権をもつものが灌漑用水をまったく必要としない第三者に右権利を譲渡する契約を有効と認めてみても、その譲受人は、(余水分を譲り受けてこれにもとづく用水を飲料などに転用する目的を有するような場合はそのような用水権として保護し得るかどうかは格別、)灌漑用水利権を保持するに由なく、それは法の保護に値する権利としての性格を喪失するに至るものというべきである。
このような灌漑用水利権の性質と先きに認定した諸般の事情を総合して考えると、債権者の主張第二項掲記の債権者と葉山との間の本件水利権の譲渡契約は、灌漑用水利権の社会性を否定する結果をもたらすばかりでなく、葉山が特段債権者の無智窮迫に乗じて暴利を目ろんだわけではないにしても、葉山の利益を計ることのみに走って、債権者の生活の基礎を不当におびやかすものであり、ひいては農業経済社会の基本的要請に反する結果を招来するものであるから、民法第九〇条にいわゆる公序良俗に反するものと認めるのが相当であり、したがって無効である。
三、債権者の主張第五、六項の事実は当事者間に争いがない。
四、債務者は、平上井路の灌漑用水利権は無制限に売買できる慣習がある旨主張するが、前叙判断にてらすと、右主張は抗弁としての理由を欠くので採用できない。
債務者は、債権者の本件水利権は平上井路の水利権台帳上存在せず、しかも平上井路の水利権については右台帳に登載されていない限り水利権者としての取り扱いを受け得ない慣習がある旨主張するところ、≪証拠省略≫によると、平上井路の地元関係者は古くから水利権台帳をつくっており、同井路の水利権の帰属に変動があった場合には、その関係者から同井路の世話人に届出て右台帳にその旨を登載する慣習があることを認めることができるが、客観的に水利権が認められる場合においてもそれが右台帳に登載されていない限りその効力を否定する慣習の存在を認めるのにたりる証拠はないので右主張も採用できない。
五、ところで、灌漑用水利権は、特定の流水等を専用し得る場合とこれを他と共用しなければならない場合とで量的な差異はあるにしても、少くとも一定限度においてこれを排他的直接的に用益に供することのできる支配権であるから、これを侵害するものに対しては物権的請求権と同様の救済手段をもって対抗し得るものと解すべきである。
そうだとすれば、債権者は債務者に対し本件灌漑用水利権に対する妨害の予防請求権を有するものである。
もっとも、平上井路の流水につき灌漑用水利権をもつ地元関係者の間には、各人がそれぞれの水利権にもとづいて供給され得る水の量の多寡を耕作面積にかかわりなく畝歩単位で表示する慣習があり、債権者が葉山に本件水利権を譲渡することとした当時の債権者の保有水利権は一町二反単位であったこと、他方債務者は平上井路の世話人であることはいずれも当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫によると、同井路の世話人は慣習により同井路の各利用者に対する分水の管理権限をももっていることを認めることができる。
右事実によると、債権者は、右のとおりの本件水利権の保有量にともなう同井路利用者相互間における制約には当然服すべきであり、その制約は同井路の流水の絶対量の増減等に応じて債務者により臨機に課せられることがあり得るわけであるから、債務者が本件土地の灌漑用水利を制限する行為を一切禁止することは許されないものである。
六、よって本件仮処分決定は、債務者が前記慣習による単位である一町二反単位の本件土地に対する本件灌漑用水利を妨害し又は右単位以下に制限することを禁止する趣旨に変更することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条第九二条但書を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 奥平守男)
<以下省略>